プロフィール

墨田聖書教会

Author:墨田聖書教会


〒131-0031
東京都墨田区墨田3-19-4
tel・fax : 03-3619-0195

戦後、アメリカ人宣教師と地元の人たちとの協力により1954年創立。かまぼこ形兵舎を再生した下町向島にある教会です。

子どもから大人まで一緒に礼拝を捧げています。在日外国人の兄弟姉妹たちも集っています。共に祈り合う教会として家庭的な交わりを大切にしています。


「神はそのひとり子を
 世に遣わし、
 その方によって
 私たちに
 いのちを得させて
 くださいました。
 
 ここに、
 神の愛が私たちに
 示されたのです」

 ヨハネの手紙第一4章9節

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東京墨田区東武スカイツリーライン鐘ケ淵駅から徒歩7分。プロテスタント教会              

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その1 教会暮らし 事始め
牧師夫人の『恵みの雨』(新生宣教団)の連載エッセイ「下町暮らし教会暮らし」
(2004年4月~2006年4月)から抜粋して加筆訂正したよみものです。


この写真は終戦後、払い下げられる前の米軍兵舎。 300コンセットハット 隅田川のほど近く、
下町の小さな教会で暮らして三年になる。
牧師と結婚すると世間では牧師夫人というらしいが、
この町では「牧師のおかみさん」がしっくりくる。
路地を歩けば町工場の音がもれ聞こえ、
ショッピングカートを押して
ゆっくり、ゆっくり歩くおばあさんや
猫に出くわす。
時代から取り残されたようなこの町でも、
最近ではマンションの建設が目につくが、
ここでの暮らしはだいたいにおいて穏やかだ。

米軍の兵舎を利用した会堂は、
奥行きばかり深い敷地にある。
住まいは、
その裏手にひっつくようにして建つ
築50年のモルタル木造の二階屋だ。
天然純粋系、
つまり、
夏は暑く冬は底冷えがする。
会堂と住まいは
ドア一枚でつながっている。
郊外の核家族で育った身だ、
公私のけじめがつきにくいこの造りに、
最初はカルチャーショックを覚えた。

朝はヒヨドリの声に起こされる。
7本ある古い木は鳥には格好の遊び場だ。
教会の外灯を消し、外を掃き清め、花壇を見て回る。
下町はどこもせせこましいが、
朝の空だけは広い。
さあ、紅茶を入れて今日も始めるぞ。

暮らしの中で繰り返されるささやかなものやことたちは、
心の具合のものさしでもある。
新婚時代は紅茶を飲むゆとりもなかった。
原因は牧師館のリフォームだ。

牧師館とは聞こえはいいが、
現実には、
壁は朽ち、床は抜け、女性が住むには勇気がいった。
初めて見たのは夜で、
面白そ-、と冒険に胸躍った。
ところが、
日中にまじまじと見て身震いした。
たいへんなことになったぞ。
老朽化もあるが、
深刻なのは、
いたるところ開かずの間状態になっていたことだ。

アメリカ人宣教師の家族から始まったこの教会には、
これまでに大勢が暮らしてきた。
一人一人の生活の痕跡は、遺物として残っていく。
病院のパイプベッドも、三十組の布団も、
必要な時代があったのだ。
途中で牧師館は無人となり、
「お化け屋敷」と噂された。
小学生からこの教会に通い続けた夫は、
無牧となった時、
デザイナーの仕事をささげて住み込んだ。
捨て猫の赤ん坊にミルクをやりながら、
屋根を塗り、下水を直し、神学校に通い始めた。
どうやら、
壊れたものを直すのは天職らしい。
今は、手に負えなくなったバイクや自転車が
始終持ち込まれてくる。

婚約をきっかけにリフォームは決まったが、
挙式には間に合わなかった。
一緒に住むためには、まず片付けなくては。
結婚後の半年間は、電車を三本乗り継いでの通い妻である。

当初、どこから手をつければいいのか、見当もつかなかった。
背中を押してくれたのは、結婚するまで通っていた母教会の婦人たちだ。
この教会に婦人が少ないと知るや、応援隊が駆けつけてきた。
さすがに、現状に目を丸くしつつも、
「ようするに、頭より手を動かしていくこと」
と言って、要不要を分けていった。

物への愛着の並々ならぬ夫が、持ち物の処分を迫られて悩んでいると、
婦人たちは「迷い箱」を提供してくれた。
迷ったらとりあえず放り込む。後でもう一度検討して、と。

疲れれば、賛美をして、大いに笑う。
興に乗って、夫はウクレレを弾いた。
暮らしの実際を心得た、よく働く手を持つ婦人たちの、
その陽気さが私は好きだ。
くよくよしないで、目の前から片付ければいいさ。

捨てたゴミは、床板などの廃材も含めて、
全部で2トントラック7台分になった。
一台を見送るごとに、胸のつかえがとれる思いだった。

「ここは荒野ね。花が咲くわよ」
片付けを手伝ってくれた婦人の一人が微笑んで言った。
聖書のイザヤ書からの引用だ。そんな見方もあるのか。

4か月かけて片付けを終え、
床の張り替え、
壁のペンキ塗りと山を越えるごとに、
教会のみなは同志となり、
ふうわりした優しさがお互いの間に漂ってきた。

春の息吹きが近づいている。
今年は、花壇にどんな花を咲かせよう。
色とりどりのチューリップがいいな。
(2004年4月)

イザヤ書35章
「荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、
 サフランのように花を咲かせる。
 盛んに花を咲かせ、喜び喜んで歌う」




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2007.12.31 Mon 00:03
その2 紅茶の時間
牧師夫人の『恵みの雨』(新生宣教団)の連載エッセイ「下町暮らし教会暮らし」
(2004年4月~2006年4月)から抜粋して加筆訂正したよみものです。


20代半ば、紅茶にはまった。
紅茶教室を片っ端から受講するだけでは飽き足らず、
茶畑巡りや茶摘みにも通い、
頼み込んでティーブレンダーに鑑定現場を見せてもらう熱の入れようだった。
ティーインストラクターの資格を得るや、
紅茶を入れる用があればどこへでも赴いた。
ライターの仕事でも紅茶熱を発揮して、
紅茶周りの人やことを取材して歩き、
ついにお茶の水駅の「茶」の文字にさえときめくようになった。

あの熱狂は何だったのだろう。
今の教会暮らしの中に役割があるとすれば、
だれかとお茶を一緒に飲むことかもしれない、とふと思う。

行き詰まったり迷っている人とともにお茶を飲む時、
気の利いたアドバイスは案外必要ないものだ。
湯気の立つお茶をほっとすすりながら、
同じ空気を吸うだけでいい。
自分が迎え入れる側になってみて、
これこそ傍らに寄り添うキリストのやり方かな、
と思うようになった。
手っ取り早く聖書のことばで説得したい誘惑を抑えつつ、
時間に追われるもろもろの心配を手放して、
大切なのは、
心もちゃんとそこに座っていること。
お茶を飲むということは、
どれだけ気前よく相手に時間をささげられるか試されるところがある。

教会にもお茶はつきものだ。
米軍兵舎を利用した会堂では、
礼拝も交わりも一部屋で行なわれる。
場所をふさいでいた年代ものの机や本棚を移動させて、
入り口付近にカフェゾーンを作った。
電気ポット、紙コップ、カリタのティーポットを常備して、
だれでも手を出せるようにしてある。
半年ほどは私が一人でホストをしていただろうか。
見よう見まねで一人、二人と入れてくれるようになり、
今では男女の別なくお茶を入れるのが当たり前になりつつある。
この場所で大切なのは味ではない。
だれかがだれかのために一杯を差し出す思いやりだ。
礼拝が終わると車座になって、
一週間ぶりの再会を喜び合う。
小さな教会ならではの光景かもしれない。

牧師館は私の領域だから、
会堂での入れ方とはちょっと違う。
お湯はくみたての水をやかんでしゅんしゅんに沸かし、
ポットは温めて、
茶葉はキャディスプーンで量る。
新鮮な茶葉を熱湯でよく蒸らせば、
だれでもおいしく入れられる。
お客さんにティーカップを好きに選んでもらったり、私が選んだり。
気取らずにマグカップの出番も多い。
夫の愛称にちなんで、
わが家のマグの大半にはクマの絵がついている。

忘れられない一杯があるとすれば、
イギリスのB&Bで宿主のおじさんが入れてくれた午後の紅茶だ。
もう10年以上前になるが、
犯罪被害によるトラウマで長く苦しんだ。
事件から2年ほどして、どれだけ立ち直ったのかを確かめたくて、
海外旅行に行けることを一つのハードルにしようと決めた。
旅の相棒は、離婚の痛手を負った紅茶好きの知人だ。
傷心の女性二人が、
秋にさしかかったイギリスへ行くのは、賢い選択ではない。
空は暗く、雨は多い。
旅先では、途方に暮れた思いを埋めるべく、
意地になってティールームを飲み歩いたが満足できない。
宿屋の主人に尋ねた。
「この町で、おいしい紅茶はどこで飲めますか?」
彼はニコリともせず、
ステンレスのポットにティーバックを入れて
電気ケトルのお湯を注いだ。
バラ柄のマグカップについで私たちの前に置いた。
「さあ、どうぞ」
『青い鳥』のおはなしのようなオチである。
かつて教会を中心に栄えたヨークの町で、
ゼラニウムを育てていたあのおじさんはクリスチャンだったのかしら。

今年も、熱々の一杯を分かち合いたい。
ティーカップを真っ白に磨いておかなくては。
(2005年2月)

2007.12.30 Sun 17:31
その3 グッド・ニュース・カフェ
牧師夫人の『恵みの雨』(新生宣教団)の連載エッセイ「下町暮らし教会暮らし」
(2004年4月~2006年4月)から抜粋して加筆訂正したよみものです。

「グッドニュース・カフェ・プロジェクト」を立ち上げた。
といっても実行委員は私ひとり。
教会の庭でお茶を飲もうか、というだけのことである。

日曜日は車が三、四台、縦列駐車に難儀する敷地が、
ふだんは我が家の庭になる。
いまでこそ庭と呼べるが、
結婚当初、私がそこで目にしたのは、処分に費用のかかる粗大ゴミの山だった。
隣家は閉鎖された工場で、
その高い塀と、伸び放題の木々にさえぎられて日がな暗い。
鐘ケ淵という土地は、昔、淵だったためか、雨が降るとぬかるむ。
数え上げるときりがないほど陰鬱な庭も、
バザーの収益で木を剪定し、
ある日、忽然と高い塀が取り壊される不思議を経て、
時季の花が咲くほどまでに見違えた。

庭仕事をしていると声をかけられる。
つるバラ見たさに散歩コースに加えてくれた人もいる。
そんな一人に椅子を勧めたのがカフェの始まりだった。
営業は女主人の都合次第と、身勝手そのもの。
しかし、長続きの秘訣でもある。

もう少し規模を広げて、
「自転車カフェ」を一日だけ開いた。
プロダクトデザインを専攻した夫は、
卒業製作に自転車を作ったほどの自転車好きだ。
好きと好きが出会って、
地元のアーティストたちを中心に自転車部が結成され、
夫は顧問に就任した。
結成記念にカフェでも、という成りゆきだ。
ねそべった姿勢のまま走るリカンベントなど、
個性豊かな自転車で乗りつけた客たちが、
コッペパンで作ったホットドックを頬張った。

真夏の夕べには、
家族ぐるみでつき合いのある知人たちを招いて、
「ウクレレカフェ」としゃれこんだ。
トマト缶で煮込んだチキンカレーと飲み物だけを用意して、
キャンプ用の机や椅子を並べ、ろうそくを灯した。
食べて、喋って、気がむいたらウクレレを弾く。
じつは、クーラーがない居間の暑さに耐えかねて、
苦肉の策で庭へ逃れたのだが、
夜空の下の居心地に味をしめた。
教会がクーラーを購入してくれてもなお、
庭で食べようよ、と夫をせっつく。

教会に集うまで、カフェが私の休み処だった。
カフェマニアとなったルーツをたどれば、
小学生時代に夢中になった『赤毛のアン』がある。
アンの世界では、家や野原や牧師館で始終お茶を飲んで過ごしている。
牧師夫人でもあった著者、モンゴメリーも、カフェマニアだったのかしら。
心の安全地帯がカフェだとすれば、教会は魂のそれ。
両者は相性がいいのだ。

カフェを描いた映画に『バクダッド・カフエ』がある。
旅行者である女主人公ジャスミンは、
アクシデントからアメリカの砂漠にあるモーテルに滞在する。
併設のうらぶれたカフェを、
暇にまかせて掃除をし、常連客に手品を披露するうちに、
人々に笑顔が戻ってくる。
荒れたカフェは、オアシスへと蘇る。

停滞した日常に一人の女性が入っていくことで人々に葛藤が生まれ、
やがて花咲く地となっていく物語は、
単純と言われようと好みなのだ。
アン・シャーリーもしかり。
聖書を読み始めた時、そんな女性はいないかと探したところ、
出会ったのがユダヤの同胞の危機を救った王妃エステルだった。
「あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない」
エステルの養育係だったモルデカイの言葉が私にもあてはまると想像すれば、
真夏の草むしりは楽しみのひとつに変わる。

初夏、マーマレードジャム作りのワークショップが庭で行われた。
向島の路地の植物を撮影している写真家の中里さんが、
教会の庭を訪ねてきて話がまとまった。
当日は、あいにくの小雨にもかかわらず、
四十人ほどのクリエイターたちが集まった。
向島の庭木に多い橙を収穫して周り、
皮を煮てアクをとり、刻んで身と一緒に煮る計画だ。
大さじ山盛り三杯のジャムを自分ですくってお土産としてもらえる。
びんのラベルには、各自で絵をつける。
気温が低いせいか、カセットコンロの火力は頼りなく、
昼から仕込んで夕方までかかった。
それでも、いい香りが立つ中、
他人同士が飽くことなくゆるりと親しくなっていくのは、
カフェの醍醐味か。

収穫させてもらった近所のおばあさんが
「これは仏様の御供えにしてるのよ。おいしい?
じゃあ、来年も教会さんで作ってね」と言う。
「グッドニュース・カフェ」は、異文化交流の場でもある。
(2004年7月)

2007.12.29 Sat 00:09
その4 お花騒動
牧師夫人の『恵みの雨』(新生宣教団)の連載エッセイ「下町暮らし教会暮らし」
(2004年4月~2006年4月)から抜粋して加筆訂正したよみものです。


花屋を見れば、
その町の雰囲気はだいたい見当がつく。
下町暮らしを始めてから、
近所の花屋に入って驚いた。
そこは菊屋と呼びたくなる場所だった。
目玉商品は榊入りの仏花セット。
気を取り直して、
日曜日の礼拝に使う花なのだと伝えると、
「教会さんなら白い菊だね」と店主が応じる。
いやいや、
寺の葬式じゃないんだから。

日曜日は、
新しい週を始める特別な日だ。
平日の営みをそれぞれ終えて、
ただいま、と戻ってくる場所だから、
教会のつどいには元気の出る花がいい。
シックな花も好きだが、
チューリップやひまわりといった
ビタミンカラーの花を好んで使う。

長年、牧師が独り身だったためか、
私が結婚した時はどちらかというと
男所帯の教会だった。
礼拝に飾る花といっても、
ひと束うん百円のサービス花を
牧師が生けてしのいできたようなありさまだった。
成り行きで花係となったものの、
実際に始めてみると、
毎日曜日の朝までに
花を講壇にしつらえるのは
けっこう手間がかかる。
土曜日には、
出先で花屋を探し歩いたり、
深夜営業のスーパーまであわてて買いに行ったり。
菊を数本さしてすましていればいいものを、
少ない予算でなまじこだわるからよけいに悩む。

ある日、準備しきれず、
ついに花のないまま日曜日を迎えた。
礼拝後、
すみませんでしたと頭を下げたところ、
「え、花がなかった? 」と言われた。
驚いたのは私の方だ。
なんだ、
見てないんだ。
花に注意を払えと男性たちに期待する方がどうかしていた。
そもそも、
礼拝に花が必要だとだれが決めたんだろう。

気持ちがささくれそうになったそんな時、
新しく集い始めた女性が、
「いつもお花に慰められます」
と言うのを聞いてはっとした。
ああそうだ。
私も花に慰められたひとりだった。

数年前、
見知らぬ男に押し入られ、殺されそうになった。
事件後、
ひとり暮らしをしていた部屋を逃げるように出て、
阿佐谷の叔母の家に置いてもらった。
実家は東京にあるが、
自立なのだと結婚もせずに出たからいけないのだ。
親に申し訳ないと思い詰め、自分を責めた。

叔母は草月流の教室を自宅で開いていた。
なんにも聞かず、
出盛りの花を、部屋にかかさず生けてくれた。

ユリの季節だった。
大きな窓から入る陽が、
畳の間に置かれたユリを照らす。
香りの強さに酔いそうになりながら、
私は幾度も涙をこぼした。

3年後、
その町で教会に通い始め、
私はキリストに出会った。
受洗から数か月経ったイースターの日、
ユリの花はキリスト復活の象徴を表わすと聞いた。
大輪の花を咲かせている間は遠くまで芳香を漂わせるが、
いったん枯れるとひどい姿に変わる。
もう死んだかと見える冬枯れの季節を経て、
春が来ると、
再び華麗な花を咲かせる。
ユリは死と復活の花だ。
キリストというユリの花は、
私が死の恐怖にもがいていたただ中で、
新しく生きる道を開いてくれた。

花係になって一年ほどは、
花屋が定まらなかった。
下町散策の途中で花屋と見れば入るのだが、
しっくりこない。
ある日、
通りがかったブティックの店先で、
寄せ植えの花あしらいに見ほれてしまった。
これよこれ。
花屋の名前を店員さんに聞き出すと、
その足で北千住に向かった。
下町特有のくねくねした路地を入る。
素焼きの鉢植のそばに猫が寝そべっている。
小さな花畑かと見まごう店の奥に声をかけると、
若い女性が笑顔で出てきた。
ああ、やっと出会えた。
店長である彼女のセンスはもちろん、
花に愛情を持っている心のさまが、
店のすみずみにまでにじみ出ているのがすてきなのだ。

最近は、
毎週土曜日の夜、花を届けてくれる。
まるでもうけにならない仕事だ。
それなのに、
いつでもあのほっこりした笑顔で現れる。
ただの菊も、
彼女の手にかかると
新鮮な美しさが生まれるから不思議だ。

ユリを飾ると、
今朝はいい香りだね、
と男性たちが喜ぶようになった。
夫が海苔の缶に桜色の紙で細工をして、
「花献金箱」を作ってくれた。
会堂の入り口に置かれた缶は、
いつも小銭で重い。
(2004年5月)

2007.12.28 Fri 11:22
その6 大きな食卓
牧師夫人の『恵みの雨』(新生宣教団)の連載エッセイ「下町暮らし教会暮らし」
(2004年4月~2006年4月)から抜粋して加筆訂正したよみものです。


家庭をもったら、
大きな食卓を買おうと決めていた。
とはいえ、
つましい牧師家庭のこと、
当時は日本にイケアもなく、
新婚当初からリサイクル店めぐりが始まった。

ユーズドと言えば聞こえはいいが、
しょせんは人の使い古し。
初めは、とほほ、の心境だった新妻も、
店の備品だった棚までも売り物にしてもらう快挙に味をしめ、
宝探しのおもしろさにはまった。
出物を待つ忍耐と、
信じて待つ情熱さえあれば、
リサイクル店めぐりは楽しい。

それにしても、
と夫がその大きさにたじろいたのは、
ゆったり6人、がんばれば10人は座れるパイン材の食卓だった。
ちぐはぐな椅子を合わせられ、
片隅に追いやられていたものを見つけた。
分厚い天板と太い脚、
素朴で頑丈で温かみにあふれ、
まさに好みの姿なのだ。
天板の裏書きを見ると、
米軍基地の家庭で使われていたらしい。
二人暮らしにはたしかに大きすぎるが、
パンをこねたり、アイロンがけをしたり、
用途の幅が広いうえ、
これなら安心して念願の「おまじわり」ができる。

「おまじわり」ということばを耳にしたとき、
その気恥ずかしい響きに、
思わずぷっと吹き出してしまった。
「兄弟」「姉妹」という呼びかけ同様、
クリスチャン用語なのだろうか。
くすぐったくて、なかなか口にできない。
賛美をして、おしゃべりをして、祈る。
内容はそんなところだが、最後には心にすっと風が通る。
なんでだろうと思っているうちにはまっていた。

食べながら飲みながらまじわることも多いが、
そこに酔っ払っている人がいないという現実に衝撃を受けた。
会社の上司に当たる世代の男性たちですら、
紙コップのジュースで満足している。
日本のカルチャーは、
「とりあえずの一杯」から始まって、
お酒という力わざでストレスを発散させる。
こう言うと、
お酒が飲めないからアーメンはいやだと反論されそうだが、
天国のカルチャーはお酒禁止という窮屈さではなく、
お酒の力を借りる必要がないのだ。
からだにもお財布にもやさしい。
おまけに、
生きるとか愛するとか、
日本ではちゃかされてしまうような話題を
安心して話せるんだもの。

食卓を囲めば人と人は親しくなれるのだ。
うすうす気づいていた。
でも食べることが生きる自信にもつながることを知ったのは、
ずっと後だ。
料理の仕事をしている人の現場を訪ね、
いっしょに食べて話を聞いて、
そんな積み重ねで本を書いたせいか、
いまでも料理の達人だと勘違いされることがある。
いえいえ、料理ができなくなったから、
逆に食べることの力を知りたくなって取材を始めたんですよ
と答える。

きっかけは、おいしい話とはほど遠い。
犯罪被害にあったとき果物ナイフで殺されそうになった。
心の後遺症はいくつもあったが、
なかでも困ったのは、
鋭利なものをいっさい受けつけなくなったことだ。
包丁はもちろん箸の先端すらも怖い。
一年近く、スプーンと自分の指が生きのびるための道具だった。

料理がままならないので、
ころがりこんだ叔母の家で
文字通り食べさせてもらっていた。
母教会で週に何度か食べさせてもらっていた時期もある。
自分のいのちの面倒さえ見ることができないショックに、
大人のプライドをぼろぼろと壊されて、
だめで弱い私がそこにいた。
包丁を使っておしいものを作れるようになるまで、
いったいどれだけの食卓を
どれだけの人々と囲んできたことだろう。

母教会の食卓は、
机をいくつかつなげ合わせたものだった。
やっとの思いで漂着した様子のだれやかやが、
いつでも何かしら食べたり飲んだりしていた。
私もその中のひとりである。
暮らしているのは年輩の女性たちだったので、
女子修道院のような雰囲気があった。
食べていかない? 
笑顔で言われると、それはもう、うれしい。
ムーミンママの台所みたいだなと思った。

牧師館に住み始めたころ、
理想は母教会の食卓だったが、
だれかれと受け入れる度量のないことを思い知らされた。
東京郊外、核家族育ちの背景は根深い。
そんなとき、
「無理しないの。喜んでできることをしていればいいのよ」
私の倍近く生きている母教会の料理人が、
例の笑顔で秘訣を教えてくれた。

まず大切なことは?
家族の食卓に情熱を注ぐことだ。
大きな食卓なので、
うっかりしていると請求書や本が積み上げられてしまう。
妻の号令とともに片付けが始まって、
ランチョンマットをそれぞれに敷く。
朝と夜、少なくとも一日二回はお互いの顔を見て食事をする。
そういえば
離婚した友人たちに共通するのは、
夫婦で食卓を囲む機会が極端に少ないことだっけ。
食卓は心をつないで家族を作り関係を育てるのだ。
(2004年9月)


2007.12.27 Thu 01:06

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